心メモ                        
                             
 2024年

       ~春一番の大事件~

 2022年

       ~新年 明けましておめでとうございます~

 2021年

       ~春と花と蜂蜜と~

 2020年

       謹賀新年  令和2年

2019年

       ~ ヒロコ・ムトーの「人生いつでも花開く」~
       「人生いつでも花開く」
 2018年

       豆紙人形 門司港駅にお嫁入り
       新年 明けましておめでとうございます!

2017年

        新年 明けましておめでとうございます 今年は健康第一!!

2016年

       1月3日 箱根駅伝観戦

2015年

        「シュクちゃん 海を渡る」
        「サイン会のご報告」
       1月 1日 心の宅急便で出逢った方々へ

2014年

        豆紙人形 7年ぶりのパリ再会
        1月 1日 NYからHappy New Year ! !


2013年

        「こども記者だより」ご紹介
       4月 6日 「生誕100年 マサコ・ムトー人間展」のお知らせ
        1月 3日 新年 明けましておめでとうございます


2012年

       6月11日 豆紙人形・母娘展を終えて 
       5月13日 麦っ子畑35周年記念
       1月 3日 謹賀新年


2011年 

       1月  1日 新年 明けましておめでとうございます
       3月  7日 寄り添う時間
       3月 27日 手をつなぐ子供たち
       4月  4日 つなみ
       7月  9日 いたわりの心
       8月 13日 夏の思い出

~春一番の大事件~

 
虎ノ門病院肝臓内科部長 芥田憲夫先生
2024年も残り少なくなってきた。振り返ってみると、今年は本当に色々あった。 まずは肝臓に癌が2個見つかって、3月19日に手術をしたことかな? 主人が旅立った年の15年前から私の肝臓は要注意で、8年前くらいに肝硬変になって、それでもずっと大人しくしてくれていたのだけど、突然、新しい子が2個も出てきた。それもかなり厄介な部位に。 5年前の11月に乳癌が見つかり、右胸を全摘手術して今年で5年目。11月までに再発しなければ癌ともおさらば!と思っていたのに、また新しい子がやって来た! 「アチャー!やらかしてしまった!」とは思ったけれど、何の心配も不安も感じなかった。何故なら私の主治医の芥田憲夫先生は肝臓内科では名医と言われる方で、私は心から尊敬し信頼している。その芥田先生が「僕が肝臓外科では日本一と思っている進藤潤一先生が貴女の執刀を引き受けてくださったんですよ」と言ってくれたからだ。
 肝臓は手術して切り取るのがとても難しい臓器で、その分野は世界でも日本が一番進んでいるとか。日本一と言うことは即ち、世界一と言うことになる。 芥田先生が「進藤先生が引き受けてくれたからには大丈夫!」と言って下さったなら、大丈夫!そう思いながら、「どんな先生だろう?」勝手に年配の貫禄のある先生を想像していた。
 「手術を執刀する進藤です」 検査入院中に病室を訪ねて来て下さった先生の顔を見た途端、あまりにイメージが違ったので驚いた。テレビドラマに出てくる若くてイケメンの先生!と言う印象だった。 ん?でも、この顔、何処かで見たことがある! お会いしたことは一度もない。けれど、会っているのだ。 多分 私の前世は野良猫で、飢えてくたばりかけて逃げ込んだ軒先か縁の下で、拾い上げて 命を救ってくれた人間が進藤先生、なんだと思う。 前世とか來世とか、摩訶不思議とかを信じない人が聞いたら大笑いするだろうけれど、私は 幼いころから霊感が強い子と言われてきた。自分でも何度も不思議な体験をしているので 自分の直感や霊感は信じている。だから、親しい友人や知人は、全員前世からのご縁があると信じている。 この先生は、現世でも私の命を救ってくれる人だ! そう 私の直感は知らせてくれた。嬉しくて思わず笑ってしまった。芥田先生と進藤先生、このお二人に出逢えたことが私にとって最大の奇跡であり強運の証明かもしれない。
虎ノ門病院消化器外科部長 進藤潤一先生
 ~奇跡は奇跡を呼ぶ~

AIの合成写真。ドジャース球場にて(大谷選手と山本選手)
2024年6月21日&22日、私は高校時代からの親友 オノブとカメと三人で、ロスのドジャース球場でエンジェルス戦を観戦していた。肝臓癌の手術からたった3カ月後のことである。 ほんの数年前までは野球が大嫌いだった私だけれど、乳癌の療養中に大谷翔平の困難を乗り越えて活躍する姿を見て、希望とか勇気を沢山貰った気がしていた。 「生きているうちに生の大谷翔平を見たい!」と言う願望が生まれた。 どうしたら彼の試合のチケットが手に入るだろう?と色んなツテを頼り、やっとチケットを入手できたのは、皮肉なことに癌が見つかる1週間前のことだった。 癌になったからと言って、せっかく手に入れたチケットを無駄になんてできない! 手術前日の面談で進藤先生にお願いしたことはただ一つ。「先生、私、6月の大谷の試合を観にロスに行きたい。行かせてくれますか?」 手術に関しての迷いや不安は一切なかったけれど、術後3か月でアメリカに野球を観に出して貰えるか?それだけが気がかりだった。 「行かせてやる」進藤先生は一瞬の躊躇いもなくそう言ってくれた。「絶対に手術は成功させるから安心しろ」と。

後日知ったのだけど、私の肝臓の手術はかなり大変な手術だったらしい。進藤先生でなければ私の命は今頃 高い空の上だったかもしれない。 当然のことながら手術は成功したが、思わぬ伏兵が待っていた。腹水である。 肝臓癌の手術をした後は腹水が溜まる、とは芥田先生からも進藤先生からも聞いていた。 私は人一倍腹水が溜まる体質らしく、退院後毎日400gずつ増え始めた。2週間後の検診で私の体重は6キロ近く増え、足は象さんの足のようにパンパンに浮腫み、お腹は妊娠6カ月のようにポコヨーンと膨らみ、体と足が重くて、娘にぶら下がってやっと歩ける状態になってしまった。これではロスどころか、近所の散歩にも行けない!ちょっとやそっとではめげない私も流石に落ち込んだ。 「毎月1週間、点滴治療入院をしましょう。大谷君の野球を観に行けるように!」 芥田先生がそう言ってくださった。アルブミン(タンパク質)とラシックス(利尿剤)を毎日点滴して、お小水と一緒に腹水を流し出す治療だ。 「6月には体を軽くすっきりさせて飛行機に乗れるように、入院日程を調整しなくっちゃね」 ニッコリ優しい笑顔で言ってくれる芥田先生の背中から後光がさして見えた。

大谷翔平の巨大壁画

奇跡は奇跡を呼ぶ、そんな不思議な体験を6月に経験した。 「術後3か月の身体でロスに野球を観に行くなんて無謀だ!行けたら奇跡だよ!」私の友人や家族は全員そう言っていた。「普通なら行かせてもらえないよ!せっかく救った命を粗末にするなら勝手にしてください、と普通のお医者様ならそう言うよ」と。 だが、私が出逢ったお医者様は普通のお医者様ではない。芥田先生と進藤先生なのだ。 手術前に「行かせてあげる」と約束してくれるようなお二人なのだ!そしてそれは実現した。 そしてそこに偶然とは言えないような、もう一つの奇跡が生まれた。 ロスに着いた翌日、6月21日のエンジェルス戦の前に少し時間のゆとりがあるので、友人達と話題になっている大谷翔平の巨大壁画を都ホテルまで観に行った。その日、試合を観に行くと思われる日本人の観光客が何十人も壁画の前で写真撮影をしており、私たちもおのぼりさん宜しく記念写真を何枚も撮っていた。そして自分たちのホテルへのタクシーを呼んでもらおうと都ホテルのロビーに入った時、背のスラリと高い綺麗な日本女性と二人のアメリカ人男性が私たちに近づいて来た。
「日本の方ですか?」と彼女は尋ねた。 「はい」とは答えたが、何処からどう見てもわたしゃ日本人の顔だろうが?!と一瞬 戸惑った。 「ご旅行ですか?」 「大谷翔平のエンジェルス戦を観に、昨日ロスに着いたばかりです。話題になっている大谷君の巨大壁画を試合前に観にきました」 「えー?!本当ですか?実は彼がこの壁画を描いたアーテイストなんです!」 彼女が嬉しそうに横にいる青年を私たちに紹介した。見るからに陽気で気さくな感じの好青年だ。彼らはテレビの取材の仕事でここに来ていたのだそうだ。 「彼、ロバート・バルガスと言います」 それを聞いた友人のカメが叫んだ。 「私、知ってる!来る前にNHKの番組で彼を見たよ!あの人だ!」 人と人が親しくなるのに時間は要らない。私たちは昔からの友人のように距離が縮まり親しくなった。
五十嵐まり子さん


アーテイスト・ロバート・バルガスさん

サイン代わりに描いてくれた大谷選手のイラスト

エドワード・ジェームス・オルモスさん
まり子さんとバルガスさんの横で、保護者のように微笑んでいた素敵な年配の男性がいた。この顔は何故か何処かで確実に見たことがある気がした。でも、誰だか分からない。 「こちらはね、アメリカ人なら誰でも知っているエドワード・オルモスさんです。アカデミー賞にもノミネートされたことがある有名な俳優で監督さんなんですよ」 まり子さんの説明で納得。彼はテレビドラマで見かけたのだ。私の前世とは関係なさそうだ。 「オルモスさん、喉頭癌を乗り越えて、それが先日テレビでも放映されたのですが」と言う まり子さんの言葉に私は言った。「アハハ、私も3か月前に肝臓癌の手術をしたばかりよ!」 途端にオルモスさんが私を抱きしめて叫んだ。「HIROKO、YOU ARE MY FAMILY!」 何だか知らないが 私たちは”癌繋がり“の友人になったようだ・
「僕たちも今日、試合を観に行くから、球場で又会えるといいね」とバルガスさんが言って 私たちも別れたが、その日の試合は完売で5万数千人が足を運ぶ。その中で互いに見つけるのは不可能だと思っていた。それなのに、又 会った! よほど私たちはご縁が深いのだろう!

球場で再会したオルモスさんと

また会っちゃった!
その日、私たちの目の前で大谷翔平さんは特大のホームランを打ってくれた。そして翌日の エンジェルス戦も二日続けての大きなホームランを! 5万人を超す観客が興奮と歓喜と熱狂で叫ぶ大谷コールが、まるで地鳴りのようにドジャース球場を駆け巡り、私たちの身体を包んだ。私は感動で長い間 その場で立ちすくんでいた。

~バルガスさん始球式のピッチャーに!~
ロサンゼルスは、市に貢献した人に、その人の名前を付けた日を認定すると言う面白い事業をしている。今年の5月17日が「大谷デー」と名付けて、ロサンゼルスに認定されたことは日本人なら大抵の人は知っていると思う。彼がドジャースに入団し、ロスの地に来たことからロスに大谷君が経済的効果をもたらし、日米の外交的、野球界の発展的貢献は多くの人が知っている。 実はその3年前の2021年にバルガスさんも「バルガス デー」と9月8日がロスから認定されているのだ。彼は世界的な壁画アーテイストとして文化面でロスに貢献しているのである。その彼が9月8日のガーデイアンズ戦の始球式でピッチャーを務めると言う。 「ヒロコさん、観に来られない?」と誘われたが、6月のエンジェルス戦が私の海外旅行は最後になると覚悟していたので、「ゴメン、無理」と一旦は断った。 だが、パートナーのまり子さんから「もし、ヒロコさんが来てくれるなら、彼のゲスト席を空けておく、と言ってますが、無理でしょうか?」とメールが来た時に、もう一度大谷君の試合を観たい!と思った。こんなチャンスはもう二度とないかもしれないと。
思わず「行くよ」と返事をしてしまった。

AI合成写真 2回目のドジャース球場にて(大谷選手とグラスノー選手)
2024年9月8日 私は二度目の大谷翔平君の試合を観にロスのドジャース球場にいた。今回は次女が付き添いで。

娘とドジャース球場にて
その日は大谷君の46号ホームランの日。私は3試合観て、3試合ともホームランの日に出逢っている。何というラッキー!!

「見えるかな?ホームランを打つ直前の白球」

46号ホームランの看板
まさか三回も「生大谷」の試合を観ることが出来るとは思ってもいなかった。それも 毎回、特大ホームラン付きで! 人生は 何が起きるか分からない。試合前のバルガスさんのセレモニーパーテイにも招待されて、私はまり子さんに聞いた。「何であの時、私に声をかけてきたの?日本人は沢山いたのに」どう考えても不思議で仕方ない。 まり子さんは答えた。「何故か ヒロコさんを見た時に、声をかけるべき人だと思ったのです」きっと彼女も私同様、霊感女なのかな?(笑) 偶然の出逢いではあったが、私たちの出逢いは必然だったのかもしれない。 あれから既に3か月が過ぎ、もう少しで2024年も終わる。だが、今年起きた全てのことが 来年、私が久しぶりにやろうと企画している「あること」に繋がっている。 当たれば宝くじみたいに確率の低い企画であるが、もし実現したら、もう一度、ロスに野球を観に行こうかな?私の誕生日祝いに!傘寿のお祝いに!               
 2024年12月末日   ヒロコ・ムトー

~新年 明けましておめでとうございます~

クリスマスからお正月の2日まで、6年前から伊東のヒポクラテイックサナトリウムで温泉療養&体質改善を兼ねて毎年末年始を過ごしている。 最初は一人で、翌年からは友人二人が参加。そして今年は小中高大の友人5人が参加しまるで老女修学旅行のような楽しい日々だった。それぞれの時代に出逢った親友たちは全員半世紀以上のお付き合いだ。子供の頃のままに、私の長所短所をそのまま受け止め何かあった時はすぐに駆けつけ助けてくれる親戚よりずっと心が近い関係である。 二年前に乳癌で右胸全摘手術を受けた私は、その後のコロナ勃発もあって、この二年間は仕事も全部辞め病院の検診と年末サナトリウム滞在以外はほとんど外出しなかった。 だからここでの散歩再開は全く二年ぶりになる。筋力の衰えた脚だが、親しい友人たちと一緒に人気のない別荘地の桜並木を往復一時間かけて歩く散歩のなんと楽しい事! 名前の分からない道端の野草に足を止め皆で写真を撮ったり、季節外れに一輪だけ咲いた桜に「頑張れ!」と声をかけたり、近辺に散在する美術館に足を運んだり、コロナ時代に こんな時間を友人たちと過ごせる幸福に感謝した。人生 長生きも悪くない!
 
  今年の初日の出は6時50分。6時15分サナトリウム玄関で全員集合!日の出スポットに向かった。風もなくぽかぽか温暖で快晴!素晴らしい初日の出日和! だがなんと日の出方向に大きな黒雲がどんより重く立ち込め、ご来光のお姿を拝めそうもない!がっかりしたのも束の間、黒雲の裏側から昇ったお日様は空を茜色に染め、姿は隠れたままながらも黒雲の縁を刻々と茜色に変えて行き、雲間から燦燦と漏れ輝く陽光の荘厳な情景に私たちはただただ感動し眺めていた。
「ヒポクラテイック サナトリウムとの出逢い」
 毎年滞在するヒポクラテイック・サナトリウムは何度かこの「心メモ」で紹介しているが最初のきっかけは3歳で紫斑病、小学校高学年から起立性調節障害に苦しんでいた次女の 身体を治すため、「体質改善にいい」と妹が教えてくれたことから中学に入る前の春休みを利用して十日間の断食療法に娘を連れてきた。七日間人参とリンゴのジュースで身体の毒素を出し切り、その後三日かけて補食から正食に戻していく。一日目は玄米の重湯&具ナシ味噌汁&大根おろし。二日目は玄米粥に具あり味噌汁と納豆&しらす大根おろし。三日目は「正食」と呼ばれる玄米ご飯、具あり味噌汁、納豆大根おろし、干物の焼き魚、お漬物少々。 断食の後に食べるご飯の美味しさに、胸が熱くなるほどに感激したものだった。 当時、娘の付き添いで行った私は健康体だったので十日間の断食コースが耐えられず 娘に隠れ、散歩と称して一碧湖傍のお蕎麦を食べに行ったり、カレーを食べたり、珈琲を 飲んだりして、後でそれを娘に知られてかなり恨まれた。親として大反省! あれから26年、花粉症から気管支喘息になって八カ月間ゼホゼホ苦しみ、何処の病院に 行っても治らず、これは体質改善して体の中から治さなければ!と思って思い出したのが 医学博士・石原結實先生の断食道場「ヒポクラテイック サナトリウム」だった。2016年10月、 1ヶ月滞在してすっかり治して頂いたのには感謝しかない。それ以来、年末年始はここで 温泉に浸かりながら過ごしている。
「6年前に来た時の 断食から正食になる二段階と三段階の朝食夕食メニュー」

断食明けの捕食 二段階 玄米粥メニュー

断食明けの三段階目 正食 玄米メニュー
玄米粥、湯豆腐、納豆、シラス大根、 ほうれん草の白和え、なめこ味噌汁
 お新香
小豆入り玄米ご飯、白菜と玉ねぎの味噌汁、鮭のトマト煮、大根のあんかけ、
蟹とトマトとキューリのサラダ、黒豆、 お新香、デザートの柿
   
娘を連れて行った当時は腎臓や肥満、アレルギー体質の改善など患者さんがメインで、健康体は付き添いだけだったが、現在はデトックスのためのダイエット、身体を調整するアスリート、隣接するゴルフ場のゴルフを楽しむ人々など一般人も受け入れるプチホテルのような洒落た建物の療養所になっていた。ただでさえ美味しく感じる断食明けの正食もとても美味しくゴージャスになっていて、進化した今年のメニューなど、断食のための療養所であることを忘れてしまうくらいだ。
「今年の朝食&夕食のメニュー」
 

「石原先生を支える美しい三本柱」
「クスリのいらない健康法」「病気にならない食べ方生き方」などの健康増進がテーマの石原先生のここでの講演は駄洒落は多いがメチャクチャ面白く説得力効力がある。必聴!!
 
医学博士 石原結實先生
 
漢方医師 石原新菜さん
 
同じく漢方医師である石原新菜さんの講演も父親譲りでテンポ良く歯切れよく分かりやすく楽しく、それでいて中身が濃く、一時間半があっという間に終わってしまう。おまけに、なんてたって新菜さん、美人なんだなあ~! ここでヨガインストラクターをやっている妹の美華さんも、まるでアニメから抜け出してきたような手足が長い美少女だ。草の香りがするような健康で素朴で純真な美華さんのヨガはそれでいて甘くない。しっかりと体と精神を融合させるレベルの高いヨガである。
 
 
ヨガインストラクター 妹の美華さん

石原先生の奥様エレナさん
そしてヒポクラテイック サナトリウムと石原家の要と言えば、石原先生の奥さんエレナさんだ。心理学、日本語をロシアの大学で学び、エステシャンの資格も持ち、瞑想や心の講演も患者さんや宿泊客の心を癒してくれる。ロシア人ながら日本人より細やかな気遣いが出来る女性で、ふくよかな美しさの中に凛とした強靭な意思がある。日本人より美しい日本語を話せるが、何十人もいるスタッフにはまずは行動で!と自ら率先して重いスーツケースを運んだり、厨房で片づけ物を手伝ったりする姿には頭が下がる。石原先生はこんな美女三人に支えられてご自身の理念を遂行邁進なさっているのだから本当に幸福な方である。私の精神と体の療養所であり下界からの隠れ家でもあるヒポクラテイック サナトリウムに感謝の意を込めて、ご紹介と新年のご挨拶としたい。  
 2022年1月吉日   ヒロコ・ムトー

~春と花と蜂蜜と~

コロナコロナで明け暮れ、心も体も閉塞感に満たされた2020年が終わったものの 未だにコロナの呪縛の中で生活しているような日々に、嬉しいニュースがひとつ 飛び込んできました。
二十数年来の友人I氏が、日本初上陸のスエ―デン最高級蜂蜜を帝国ホテルの 「ガルガンチュア」で販売することになったのです。 スエ―デン大使、帝国ホテル貞保社長の応援も受け、これから色んな形で 全国販売することになるのですが、十数年前、巨額の負債を抱えて倒産したI氏の この再起は信じられないことでした。
「夢追いマン」と名付けられるくらい斬新なアイデイアと能力でスケールの大きい ビジネス展開を繰り広げていたI氏は、そのスピード故に落とし穴もあったのでは ないかと思います。ジェットコースターのてっぺんから真っ逆さまに落ちた十数年前、 即死したも同然の彼の再起を誰が想像できたでしょう?
その後、いくつかの病にも襲われ、数年前にお会いした時は杖なしでは歩けない状態 でした。その人が、昨年、肉親の臓器提供で奇跡的に手術に成功し、元気に新しい ビジネスの第一歩を踏み出し始めました。 バレンタインデー前日にかかってきた電話は 春と美しいスエ―デンの花と蜂蜜の 希望に満ちた嬉しく楽しいニュースでした。I氏の復活は、どんなことでも諦めずに 努力すれば必ずそのご褒美は得られることを信じさせてくれる「夢」のようなお話でした。
贈られてきたスエ―デン蜂蜜は 少女の頃に仄かに感じた初恋の切なさにも似た 優しい幸福を感じさせる上品な甘さでした。 機会がありましたら この蜂蜜をテイステイングしてみてください。きっと毎朝の 食卓に置いておきたくなるのではないかと思います。
 


スエ―デン蜂蜜のパンフレットはこちらから


謹賀新年  令和2年

明けましておめでとうございます。 昨年は世界も日本も不穏な状況が続きました。今年は どうなることでしょうか?心穏やかに過ごす平和な一年に なって欲しいですね。 私は昨年10月に乳癌が見つかり、11月末に右胸を全摘 致しました。そんな訳で、昨年12月25日から1月2日までは 例年予約している伊東の「ヒポクラテイック サナトリウム」で 温泉に浸かりながら 食事療法をしながら滞在しました。 四年前、気管支喘息を患って院長兼オーナーの石原先生に治して 頂いて以来、毎年こちらで年末年始を過ごしています。  
 レストランメキシコのクリスマスパーテイ サナトリウムの仲間たち 
   
楽しみは石原先生&エレナ夫人主催のクリスマスパーテイ。 メンバーは「知的生活の方法」の著者で上智大学教授の 故渡部昇一氏ご一家、廸子夫人とお嬢さんの早藤眞子さんと ご主人(スイス在住。国連勤務)。そして世界中を駆け回り 十何か国語も操れるレアメタル関連会社経営のスーパーマン 中村繁夫社長。昨年はアコーデイオン奏者チャーリー石黒さんと パーカッション&ピアノ奏者のセバスチャン・ゴメスさんの生演奏、 カラオケで盛り上がったのですが、今年はお二人がお仕事で不在。 残念!
 KONIちゃんと私  KONIちゃん&CHIEさん 
 
ここでは毎年、この時期に再会する仲間たちと過ごします。 今回は小錦さんとすっかり仲良くなり、食後には皆で彼を囲み、トークmeetingを楽しみました。小錦さんはとても頭がシャープな方で、ハートが温かく気さくで楽しいので、みんなの人気者です。 日本を愛し、何よりもご家族を愛し、日に何度もハワイのお父様と会話をしています。心からお父様を愛し尊敬している姿に感動させられました。 奥さんの千絵さんは 凄い美人!でもコニちゃん同様気さくで さっぱりしてとっても魅力的な女性です。コニちゃん (ここでは皆、彼をそう呼んでいます)が彼女を深く愛している姿も 素敵です。 二人が歌う「プレゼント」という歌をユーチューブで聴いて 涙が出てしまいました。 「何もない日がプレゼント」 特別な日じゃないけれど プレゼントあげたいな・・ その歌詞が胸に深く響く歌です。
  
伊東でゆっくり 心と体を癒して帰宅した、直近の写真です。 「一か月前に大手術をしたとは思えないほど元気そう!」と 娘が撮ってくれました。 皆様 今年も一年 よいお年でありますように!                       

~ ヒロコ・ムトーの「人生いつでも花開く」~

門司港駅の関連記事はこちらから  
  3月 5日 JR九州プレスリリース 「門司出身の豆紙人形作家 マサコ・ムトーさんの作品を 門司港駅に展示します」
  3月 8日 西日本新聞 コラム「春秋」 坂井政美論説委員長
  3月12日 山口新聞 稲尾佳衣記者   「レトロを彩る豆紙人形」
  3月16日 西日本新聞 岩佐遼介記者   「豆紙人形 門司港駅に展示」
  4月11日 西日本新聞 岩佐遼介記者   「93年の人生 娘がつづる
  4月26日 北九州朝日新聞  「大正レトロ豆紙人形 門司港に帰郷」
  5月 5日 神奈川新聞  「人生遅すぎなんてない」
  
 ライトアップの門司港駅  緑の窓口 豆紙人形と私 
3月9日(土) 
13時16分に小倉。その足で門司港駅に行く。駅前広場で16時から 母のことを語るトークショー。その後、本のサイン即売会。 前日8日、西日本新聞朝刊コラム「春秋」に素晴らしい記事を 書いてくれた論説委員長坂井政美氏、16年前に母を朝ドラの 主人公にと4万人の署名を集めてくれた石塚政章氏、 6年前、到津の森公園で「生誕100年マサコ・ムトー人間展」を 開催した松岡裕史氏、5年前、母の母校、梅光女学院の朗読講演で ピアノ演奏をしてくれた二村多恵子さん、トークショーを企画した 小倉区役所の永田教子さん、駆けつけてくれた古い友に感謝!
3月10日(日)
待ちに待った門司港駅グランド・オープン。母の豆紙人形のお嫁入! この日を、どんなに待ち望んでいたことか!朝9時、展示準備で お世話になったJR九州の佐當和紀さんと高木圭一郎さんに初めて駅で会う。 このお二人の温かく細やかな心配りに、どれだけお世話になったことか! 顔を見たとたん、涙が溢れ出る。 6年前、まだ青写真もできていない段階で「お母さんのお人形、一番 いい場所に飾りましょうね」と言って下さった青柳俊彦社長。式典前に お礼のご挨拶をしに貴賓室へ。開口一番、青柳俊彦社長が口にした言葉は 「忘れていなかったでしょう?」だった。感激で胸がいっぱい!
 クエスト小倉本店特設コーナー  シルク織の芸術家 大野浩邦氏
   
 行列のできるレストラン「湖月堂」でランチをして、本を置いてくれているクエスト小倉本店に行く。今里文彦店長の手作りポップがある売り場はカウンターのド真ん前! ここにも母、マサコ・ムトーを応援してくれる頼もしい味方が!
二村多恵子さんが紹介してくれた「小倉のアランドロン」大野浩邦氏は 相撲の化粧回し伝統芸を誇る四代目だが、シルクトーンの染織工房で 蜻蛉の羽のように軽くて薄い芸術作品を創っている。その美しさに目と 心を奪われた。
 創業150年  松琴堂  駅前シーモール くまざわ書店
   
3月11日(月)
母の母校、梅光女学院の元副校長、片山宣子先生に連れられて 下関の三木潤一副市長を表敬訪問。片山先生の教え子で議会議員の井川のり子さんも 同席。「門司と下関とで連携し、もっとマサコ・ムトーさんを地元に知って もらうように動きましょう」と三木副市長。なんて素敵! 横浜に帰る前に本にも登場する「松琴堂」に立ち寄る。女社長の西原由美 さんが献上銘菓「淡雪」を制作中だった。
小倉のクエスト同様、(下関の)くまざわ書店の岩下葉子店長も目立つ場所の 特設コーナーに本を沢山並べて置いて下さっている。 母の故郷での三日間は 幸せで心が熱くなる毎日だった。

 
 「人生いつでも花開く」

2007年に始まった朗読講演「心の宅急便」と一緒に、 ~夢は叶うもの 叶うものと思い続けるもの~   
ヒロコ・ムトー著 2月20日 野絵瑠社 発行  定価 1500円(税別)
3月中旬  アマゾンの電子書籍発売 (本の表紙)
どんな時もめげることなく  「夢と希望と可能性」を忘れず 明るく力強く生きた「母の一生」を書きました。 読んで頂けたら 嬉しいです。          
  


豆紙人形 門司港駅にお嫁入り

2007年に始まった朗読講演「心の宅急便」と一緒に、 長い間、国内外を旅した母・マサコ・ムトーの豆紙人形が 6年間の改修工事を終えて来春3月グランドオープンする 北九州市門司港駅にお嫁入することが決まりました。 大正3年に開業し、105年の歴史を持つ門司港駅は、駅舎として 日本で初めて国の重要文化財に指定された建物です。 年間120万人の旅人が訪れる門司港駅で、大正時代の遊びや 懐かしい風景を再現した母の豆紙人形は、大正時代のレトロな姿に 生まれ変わった門司港駅と共に、旅情と歴史と人生をお届けするでしょう。 大正2年に門司で生まれ、門司港駅で幼い頃遊んでいた母にとって 門司港駅は「初恋の人」のようなもの。 生まれ故郷に帰って初恋の人に嫁ぐ、そんな素敵なロマンスが 始まりました。
  


2018年 新年 明けましておめでとうございます!

今年も昨年同様、気管支喘息を治してもらった伊東の「ヒポクラテイック サナトリ ウム」で クリスマスから十日間、温泉に浸かりながら年末年始を過ごして帰宅しました。 昨年は、スイスから毎年いらっしゃるHさんご一家とお友達になりました。 今回も楽しい出会いが・・・・ 。
  

2017年 初春
 富士山を背に(伊東にて)
 
メキシカンレストランで クリスマスパーテイ
石原先生ご夫妻と先生のご友人たち。
世界中を駆け回る実業家、中村繁夫氏と セバスチャン、ゴメスさんとチャーリー石黒さん。
チャーリーさんのアコーデイオンとゴメスさんのピアノに感動しました
 


新館ロビーで小錦さんと    
滞在中の小錦さんはみんなの人気者!    
明るくて気さくで楽しくて、いつも誰かに囲まれていました。
今年は 新しい出会いに恵まれるかも・・・そんな気がした一年の始まりです。


2017年 新年 明けましておめでとうございます 今年は健康第一!!

昨年、珍しく体調を崩し、春の花粉症がきっかけで気管支喘息なんてものに なってしまいました。「心の宅急便」を卒業させて頂いたので、ゆっくり旅行でも・・ と計画していたのに、生まれて初めて、丸8ヶ月、ゼホゼホ、コンコンと 苦しい咳が止まらず、声は出なくなるし、喉にいつも痰が張り付いているような 不快な状態が続き、その上、薬の副作用で若い頃のアレルギーが再発し、頭部に ブツブツ皮膚湿疹が出る始末!あーあ、歳は取りたくないものです!! そんな訳で、以前、次女が子供の時にアレルギーを治してもらった伊東のサナトリウムに 体質改善に行ってきました。

2017年 初春
 富士山を背に(伊東にて)
 
サナトリウム中庭
 
温泉に隣接する離れの個室に滞在
昨年十月、サナトリウムの二十日間でようやく咳も止まり、アレルギーも完治したので、12月はダメ押しと休養のためにクリスマス前から予約を取り、年末年始をゆったりとそこで過ごし、ようやく我が家に帰ってきました。 ここは基本、一週間から十日くらい人参ジュースで断食をして、その後段階的自然食の捕食で体質改善をするのですが、実は私は人参が苦手。身体を治すためには!と覚悟して来たのですが、なんと最初の三日で音をあげてしまいました。仕方なくキャンセルして帰ろうかとも思ったのですが、「嫌いな物を無理に摂取しても身体には効果がないから」と石原院長の優しい計らいでリンゴジュースに替えてもらい、長期滞在なので夕方は玄米の重湯と味噌汁とシラス大根おろしと梅干が出る「半断食」にしてもらいました。おかげで少しもお腹が減りませんでした!  
 
断食明けの捕食 二段階 玄米粥メニュー
 
断食明けの三段階目 正食 玄米メニュー
玄米粥、湯豆腐、納豆、シラス大根、 ほうれん草の白和え、なめこ味噌汁 お新香   小豆入り玄米ご飯、白菜と玉ねぎの味噌汁、鮭のトマト煮、大根のあんかけ、 蟹とトマトとキューリのサラダ、黒豆、 お新香、デザートの柿
 こんな感じのメニューです。断食明けの食事や果物の美味しいこと!! 身体も毒素が出きって快調になりますが、半断食であっても、「最高に美味しい!」と 食べることの感激と感謝を久しぶりに味あわせてもらいました。  

 謹賀新年  2016年 1月3日 箱根駅伝観戦

昨日1月2日は青学箱根駅伝往路優勝!!5区全てが1位で通過!昨年の覇者・その後、怪我で泣いた「山の神・神野」が駅伝に合わせて体を調整し、見事に2位と3分4秒差で往路のテープを切った。青学卒業生としてはなんとも嬉しい大快挙だ! 昨年の今頃、私は同じ青学卒のシアトルの友人、ショルツ悦子さん宅でPCで観戦していた。彼女の日本の友人たちからメールで実況中継が次々と入ってくる。 「ヤレー!」「頑張れー!!」「1位通過―!」「ウオーッ、優勝だー!!」「青学優勝!!」 その途端、悦子さんと私は抱き合って喜んだ。

第92回 箱根駅伝復路  最終ランナー渡辺利典 日比谷公園通過
2016年1月3日、今年は毎年帝国ホテルの17階アクアラウンジにテーブルを予約している友人の佐藤一家にお声をかけられて、私もランチをしながら箱根駅伝を観戦。 見えますか?この豆粒のような小さな姿が渡辺君です。2位に7分以上引き離した堂々の1位!!シャッターを押し、夢中で二枚目を連写した時は、もうパトカーしか写っていませんでした。速い!!青学は今年10区全て1位通過。39年ぶりの偉業だとか。 来年もここで三連覇を見届けるぞー!!  

 「シュクちゃん 海を渡る」
 

4月11日(土)、シアトルの紀伊國屋にて「天使になったシュクちゃん」の 朗読サイン会をしました。シアトルは2003年に公立高校2校、日系老人ホーム2箇所、 教会1箇所で母の豆紙人形を訪問展示をし、2010年にイングルモア高校、J・スタンフォード小学校で「心の宅急便」の朗読講演をしに行った懐かしい街です。 今回は5年前、私たちのためにハープを貸して下さり、素敵な紹介記事を書いて下さった ソイソースの越宮照代編集長と、紀伊國屋の渡邊成一店長がシアトルの人々にもこの本を 発信したいと企画し、お声をかけてくれました。

シアトル紀伊國屋 朗読サイン会会場

中央に「天使になったシュクちゃん」コーナー

朗読風景

書棚に囲まれて

サイン風景
日本語勉強中の女子大生


(左)英語で朗読してくれたショルツ悦子さん
(右)元イングルモア高校・日本語教師 ノブエ フクワ先生
悦子さんの読書会のお友だちも来てくださいました。 海を渡ったシュクちゃんが これからシアトルの地で、どのくらい歩いてくれるか楽しみです。

 「サイン会のご案内」
 

「天使になったシュクちゃん」が シアトルから「来てください」と お声がかかりました。4月11日、シアトル紀伊國屋店にて朗読サイン会が開催されます。「シアトルにも犬好きが沢山います。ペットを喪った悲しみに立ち上がれない人も。そんな人に明るい勇気をくれるこの本を シアトルのアメリカ人と日本人に届けたいと思います」と現地の紀伊國屋書店・渡邊店長と、日本人向けタウン紙「ソイソース紙」の編集長越宮さんの共同企画です。 お客様はアメリカ人と日本人、半々なので、朗読は日本語版と英語版両方やることになりました。英語版は学生時代からの親友、ショルツ悦子さんが朗読してくれます。  
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 「サイン会のご報告」
3月8日(日)、午後2時~5時、有隣堂横浜西口店にて 「天使になったシュクちゃん」のサイン会を致しました。今回はイラストレーターのYASCA さんもご一緒に。2時からのサイン会に 前日来て予約整理券を一番で取ってくれたのは心の宅急便で7年前に知り合った杉並小学校PTA会長さん達のグループ、 二番目は朝の十時から来てくださったご近所一家、そして小学校の同級生から大学の同級生などのグループが続き、何かあるといつも来てくださる方々、心の宅急便で仲良くなった校長先生や教育関係者、そしてYASCAさんの お友達などなど、事前予約も入れて延べ200人がご購入くださり645冊が売れました。
サイン会は 当日まで何があるか分かりません。どれだけの方が来てくださるか? 何度やってもドキドキします。でも、遠くから来てくださる方、しばらくぶりにお会いする方、いつも応援してくださる方、懐かしく優しい方々のお顔に会えます。 そして 祝福してくださる温かい言葉に心が満たされます。

イラストレーターのYASCAさんと
 
イラストレーターのYASCAさんと



フランス人の友人との再会

長い長いお付き合いの方々

お手伝いの皆さんと
大きなイベントには手が必要です。いつも支え手伝ってくれるチームが います。今回のサイン会も 後列の皆さんに助けていただきました。 3月8日は 実はシュクちゃんの命日!それに合わせて出版した訳ではないのに サイン会の日が決まったら「その日」でした。 そして 3月8日は 「天使になったシュクちゃん」の誕生日! ここから シュクちゃんがどんな風に歩いて行ってくれるのか、それが楽しみです。

 1月 1日 心の宅急便で出逢った方々へ
新年 明けましておめでとうございます。
昨年はいいニュースもありましたが、悲しいニュースも色々ありました。 今年は明るいニュースで始まりたいものですね。 2007年11月に心の宅急便をスタートして、昨年11月で丸7年になりました。 横浜の旭中学校から始まって北は福島、山形、南は北九州、その他東京、大阪、茨城、長野、千葉、山口と地方にも出向き、2010年には米シアトルの小学校&高校と遠い海外にも足を運び、小中高だけでなく保育園、幼稚園、老人ホーム、校長会、教職員会、地域の会、保護者の会、その他色々な方面に心の宅急便を届けさせて頂きました。

子供達からの感想文も2万通を超え、その度に素直な声に励まされました。 身体と元気が続く限り、この活動は続けて行きたいと思っておりますが、今年は4人の メンバーのうち3人が70代に入り、それぞれの体調の変化などから、半年一年先の講演のご依頼を 4人揃って責任を持ってお約束するのが難しくなりました。そんな訳で、来る2月14日、「第46回神奈川県母と女性教職員の会」の講演を もちまして、心の宅急便の一区切りとさせて頂くことに致しました。この「心の宅急便」を通して出逢った方々には、どれほどの大きな温かい励ましや お力を頂いたことでしょう。どれほど素敵な時間を共有させて頂いたことでしょう。

              心の宅急便メンバー
長村美代子(左前)、ヒロコ・ムトー(右前)、栗山泉(左後)、原田節子(右後)






シアトル イングルモア高校にて

講演朗読風景
この7年間、手を広げて受け入れて頂き、又は優しく背中を押されて前へ前へと進ませて頂いたこの素晴らしい出逢いと時間は人生に於ける私たちの宝物です。今までのご支援、ありがとうございました。  感謝とともに          2015年 1月吉日 

 豆紙人形 7年ぶりのパリ再会
風薫る5月、2007年の母のパリ追悼展以来、7年ぶりにパリを訪れました。2005年日本文化会館アンコール展後、元駐仏日本大使 平林博氏のご厚意で数箇所に分けてパリに母の豆紙人形を寄付させて頂いたのですが、今回はそのお人形たちが今どうしているかと会いに行きました。同行者は高校時代からの親友オノブとカメ&大学時代からの親友ノンコの三人。2004年、初めてのエスパスジャポン展以来パリ展は3回。いつも一緒に手伝ってくれた仲間です。
5月24日(土) エスパス ジャポン訪問 2:00pm
数年前に転居したエスパスジャポンの場所が地図を見てもよく分からず駅で迷っていたら、日本に住んでいたという青年が声をかけてくれて、親切に二人で道案内をしてくれました。


  エスパスジャポンの前で
(後ろの青年二人は駅で出会って道案内をしてくれました)


  エスパスジャポン 母のお人形ケースの前で勢ぞろい

エスパスジャポン「子供の遊びシリーズ」展示ケース

エスパスジャポンのオーナー夫人小沢君江さんと誕生日の乾杯!
(地下の図書室にて)


訪ねた日は私の誕生日の翌日、5月24日。小沢君江さんがシャンパンとケーキを用意して待っていてくれました。69歳の誕生日です。 君江さんは近著「四十年パリに生きる」~オヴニーひと筋~(緑風出版)に書かれているように、フランス人のご主人と共に、パリに民間の日仏交流の館「エスパスジャポン」を開設し、パリに住む人なら誰もが知る日本語新聞「オヴニー紙」を編集発刊しただけでなく、ナチス強制収容所の証言を書いた「ビルケナウからの生還」、第二次世界大戦下、ナチスドイツ兵とフランス人女性の間に生を受け過酷な運命を強いられた「ボッシュの子」等等、いつも衝撃的な問題をテーマに翻訳家として活躍しています。



5月26日(月) パリ日本人学校訪問 10:00am
一日置いて月曜日の26日にはパリ郊外にある日本人学校に行きました。私たちが泊まっていたオペラ座近くのホテルからパリ郊外の日本人学校にはメトロと高速電車を乗り継ぎ約二時間かかりました。一時間くらいで行けると大野啓司教頭先生から事前に丁寧な行き方をメールで教えて頂いたのですが、乗り継ぎがうまく行かず・・・・。 でも、何とか辿り着きました。

     パリ日本人学校正面玄関
パリ日本人学校の事務局、宇都宮明子さんが近隣のフランスの学校にも日本の文化を伝えたいと、母の豆紙人形の資料作りを始めてくれていると言うお話を聞きました。楽しみです。  
    ガラスケースの中に母の写真も

パリ日本人学校正面玄関ホールの展示ケース 
河部謙治校長先生と一緒に

優しい笑顔で出迎えて下さったのは今年4月に赴任なさったばかりの河部謙治校長先生。7年前にお会いした清治校長先生と同じく子供達に対する愛情が言葉の端々に溢れてきます。ここから「心の宅急便」がスタートしたことをお話しました。


 パリ日本人学校 ガラスケースの豆紙人形  
   (源氏物語&日本の祭り)

5月27日(火)アメリカンホスピタル訪問 11:00am
翌日の27日は アメリカンホスピタルに寄付したお人形たちに会いに行きました。 アメリカンホスピタルの小児科のミッシェル ロバン先生は「このお人形は僕の宝物です!」とおっしゃって、小児科の待合室正面の壁に飾ってくれています。特注の木製額縁に納められたお人形達はアメリカンホスピタルを訪れるパリの子供達とお母さんたちにとても愛されてい るそうです。


アメリカンホスピタル待合室「出初め式」のお人形前
 ミッシェル ロバン先生と



 アメリカンホスピタル小児病棟待合室   「お伽噺シリーズ」の人形ケース前で

  アメリカンホスピタル    立派な特注木製額縁に入ったお人形達

エスパスジャポン、日本人学校、アメリカンホスピタルで2005年から9年間、それぞれの場所で母の豆紙人形は大事に大事に愛され展示され続けていたことを見せてもらい、私たちはとても感動しました。母も天国で作家冥利につきていることでしょう。 今回のパリの旅は初めて仕事を一切いれない旅でした。ノンコと言う英仏べらべらの語学の達人が一緒なので言葉には不自由はしませんでしたが、それ以上に「パリのナイト」&「パリの守護女神」と私が信頼する渡辺実&理子夫妻のサポートが大きな安心感で過ごせました。

パリのナイト 渡辺実さん サンラザール駅前で


パリの女神 理子ちゃん     イタリアンレストランの前で
理子ちゃんは7年前、ラ・フォンテーヌ校で母の「追悼展」の展示公演をした時のラ・フォンテーヌ校PTA役員ですが、責任感の強さ、迅速な対応、的確で温かく細やかな気遣いに感激し、それ以来の親友です。パリ生活26年、フランス語はべらんめえ口調、カルトナージュの工房を開いて教えている才色兼備の健康美人で、6年前からマラソンに嵌り、先月も42キロフルマラソンに参加したばかりです。今年は男性でも過酷な72キロマラソンに挑戦するとか!カッコイイ「パリジェンヌ」です。 ファッション関係の仕事で、小田和正似のご主人の実さんは、写真の通りダンデイで素敵な男性。さり気なく細部に渡りケアしてくださるその優しさは流石理子ちゃんのご主人! 7年前もすっかりお世話になりましたが、今回もパリに着いた日に国内国外使い放題の携帯を貸してくださり、「困った時はいつでも、何でも言ってください!」とパリの旅をサポートしてくださった「パリのナイト」です。

懐かしい出会い、新しい出会い、懐かしい景色、新しい景色や思い出を心に思いきり詰めて帰った2014年5月、パリの旅でした。

 1月 1日 NYからHappy New Year ! !
昨年は「生誕100年マサコ・ムトー人間展」をきっかけに母の生まれ故郷、北九州での新しい出会いが次々と始まり心の宅急便の輪が広がりました。2014年の幕開けは 亡き主人との思い出のニューヨークで米駐在時代の懐かしい友人たちと新年を迎えています。60代最後の年をどう有意義に過ごすかを語りあいながら。今年もどうぞ宜しくお願い致します。
                                ヒロコ・ムトー

獅子舞  ヒロコ真似紙人形


2013年

  「こども記者だより」ご紹介

11月15日、北九州市立引野中学校での「心の宅急便」を 取材してくれた西日本新聞社「こどもふれあい本部」こども記者の山下千結実さんの記事が12月11日同紙の「もの知りタイムズ」に掲載されました。山下千結実さんは引野小学校5年生、目のクリッとした可愛い 女の子です。中学生の大きいお兄さんお姉さんと一緒に講演を聞き自分自身が感じたことをしっかりと明確にまとめて記事にしてくれました。引野中学校では講演の準備から進行まで生徒会の新役員が全部行ってくれました。「初めての大仕事なので心配です」と言いながら、見事なチームワークで和やかにスムーズにそれぞれの役割を果たしていました。そんな姿も小学生の千結実さんには、とてもいい刺激になったようです。西日本新聞社の2013年度「こども記者」は小4~中3まで、 64人。ふだんは、「もの知りタイムズ」編集部の大人の記者とこども記者数人が一緒に取材に出かけますが、「こども記者だより」は自分で書きたいテーマをみつけて、自主的に取材した記事を載せています。今回は、いじめに関心のある千結実さんが「講演を聞いてみたい」と取材してくれました。

  4月 6日 「生誕100年 マサコ・ムトー人間展」のお知らせ

       
4月6日から6月16日  北九州市小倉北区「到津の森公園」にて

 

心の宅急便メンバー勢ぞろい


  1月3日 新年 明けましておめでとうございます

 

夜明け  マサコ・ムトー作
2013年、新しい年になりました。今年は私にとって、そして「心の宅急便」にとって、100年に一度しかない出来事に遭遇することになりました。 「心の宅急便」の講演の中でお馴染みの、豆紙人形作家であり母であるマサコ・ムトーが亡くなってから7年の月日が経ちます。生きていれば今年100歳・・その百歳を祝って、母の生まれ故郷である北九州市が、小倉北区「到津の森公園」にて「生誕100年 マサコ・ムトー人間展」と言う夢のような企画展を開催してくれることになったのです。期間は4月6日から6月16日までの二ヶ月余り。不自由な目で作った手のひらに乗るような小さな紙人形を作り始めて母が世に出たのが88歳。身体中に重い病を抱え人生の最後の時間で花開いた母は、それから5年で高い所に旅立ちましたが、表現者として心は思う存分自由に空を羽ばたいたことと思います。 ここに載せた「夜明け」の絵は、失明寸前だった83歳の母が目の手術に成功し、見えるようになった左目の視力だけで描いたものです。今年はそんな明るい一年になりますように!
                2013年 元旦     ヒロコ・ムトー

 2012年

  6月11日 豆紙人形・母娘展を終えて

 


昔の子供の遊び


戦時中の思い出


「雲日記」
一年がかりで準備した豆紙人形・母娘展が5月27日(日)、1500名以上の来場者を迎え、大盛況の中で五日間の展示を終えた。毎日300名もの方々が足を運んでくださったのは新聞各紙が連日のように取り上げて豆紙人形展を紹介してくださったからに他ならない。その温かい記事に感謝すると同時に、会場に来ていただいた全ての方々に心からお礼を申し上げます。遠くは宮城県から車を走らせて会場に来てくださった方、埼玉県、千葉県など近県からも、朝早くから電車を乗り継ぎ会場に来てくださった方々、その多くは「88歳から豆紙人形を始められたというお母さんから、元気をもらいたくて」「目もお体も不自由だったお母さんが、何故そんな小さなお人形を作ることが出来たのか?どうしたらそんな生き方が出来るのか教えて欲しくて」と新聞記事を握り締めていらっしゃった中高年齢者だった。 片目の視力を69歳で失明し、残る片目も白内障と言うハンデがありながら、手のひらに乗るような小さな豆紙人形を創り始めたのは、母が88歳の歳だった。母が生まれ育った大正・昭和初期の懐かしい風景、忘れ去られ消え行こうとしている日本の行事や路地裏の子供たちの遊びを、僅か3センチから5センチの世界に再現した母の小さな紙人形は大きな反響を呼び、海を渡ってシアトル、パリでも大絶賛を浴びた。母の豆紙人形を楽しげに愛おしげに見ていた人々が、じっと足を止めて動けなくなるコーナーが会場の真ん中にあった。腎臓、肝臓、肺、心臓、大腸といくつもの病魔を抱え、入退院をくり返した86歳、87歳のそれぞれ数ヶ月、自宅ベッドで動けない時期、部屋の窓から見える西の空を母が水彩で小さな絵葉書に描いていた「雲日記」だった。病床の辛さ苦しさ悲しさではなく、輝き移り行く自然の織り成す空の美しさ素晴らしさに感動し、絵を描ける幸福に感謝し、生きている喜び、そして希望に胸を膨らませ、明るい言葉と明るい絵で 母は体の許す限り雲日記を綴っていた。 どんな状態でも諦めてはいけない!どんな状態でも、何か出来ることはある!今日を悔いなく生きていれば、何があっても怖くない!母の残してくれたメッセージを一人でも多くの人に見てもらおうと企画したこの展示会を、このような多くの方々に見て、感じていただけたことがとても嬉しい。「この雲日記を本にしてください!」会場から寄せられた多くの声を、これから私は実現できるように動くつもりだ。

5月13日(日) 「麦っ子畑35周年記念」


 
マリオネット&みこべ&節子さんと


みこべと


麦っ子たちと「友だちにならない?」の歌を
母の日の5月13日、座間市の「麦っ子畑保育園」は創立35周年記念パーテイでした。 園長先生の「みこべ」こと大島貴美子さんは、十年前、麦っ子畑保育園25周年記念パーテイで知り合ってから、私の大好きなお友だちです。25周年の記念パーテイの舞台では、東北弁の朗読家として有名な女優の萩生田千鶴子さんが、ポルトガルギターとマンドリンのデュオとして有名なミュージシャン、マリオネットの演奏で朗読をなさっていました。マリオネットのお二人は、私の原作ミュージカル「ゴールド物語」「猫の遺言状」「幸せ猫」の三作の作曲と演奏をお願いした素晴らしい方たちで、私も色んな場面でお世話になっています。今回の麦っ子畑35周年記念の舞台では、マリオネットの演奏で、一部を私の朗読、二部を萩生田さんの朗読と言う、身に余る大役をみこべに依頼されてしまいました。 マリオネットの演奏で朗読できるなんて機会は、朗読が本職ではない私がお受けするだけでおこがましいのですが、一生に一度くらいは許されるかな?と、「心の宅急便」でも子供たちに朗読している「野良猫ムーチョ」を、いつものように原田節子さんにイラストをスクリーンに投影してもらって読ませていただきました。みこべは35年前、たった一人の赤ちゃんを預かることから始めて、座間の地に「麦っ子畑保育園」の種を蒔き、水をやり麦を実らせて、独自の愛ある世界を築きあげてきました。字を無理やり教えたり、数を数えることを詰め込む預かり方でなく、楽しい時は泥だらけになっても思い切り遊ばせ、音楽や人の話を聴くときは、静かに真剣に聴く楽しさを教え 年長さんが年中さんを、年中さんが年少さんを手を引いて教えたり、泣いてたら涙を拭いてあげたり、そんな思いやりが自然に出来る“子供らしい子供”を育ててきました。「麦っ子畑保育園」は、園児が卒業しても園を訪れ、小さな弟分妹分を遊びながら見てあげたり、そして大人になって結婚し子供が出来たら、今度は保護者となって子供を園に預けたりと、脈々と続いている麦っ子魂を園長のみこべ、ご主人のノンちゃん、職員の皆さん、保護者の皆さんと共に歩んできています。35年もの長い道のりには数え切れない難問関門、山も谷もあったでしょう。

 謹賀新年 2012年1月3日
 
 
山形 花笠音頭 男衆


花笠音頭 俯瞰


下関 八丁浜祭り 太鼓引き回し
お正月早々、コケテしまった。二日の午後、近所の天満宮に初詣に向かう坂道の途中で!それも盛大な勢いで、漫画みたいにスッテンコロリンと音が出るほどに!! 転んだ理由が笑ってしまう。「笑い転げる」と言う言葉があるが、まさにその言葉通り、笑いすぎてバランスを崩し道端につんのめるように転んでしまったのである。 一緒に歩いていた娘二人が両側から抱えあげてくれたが、穿いていたジーパンの右膝は大きく裂け、その中から血だらけの膝小僧が覗いていた。 それが又おかしくておかしくて、私の馬鹿笑いはしばらく止まらなかった。「笑い転げるってのを実際に目の前で見たのは初めてだよ。ああ、これってあるんだね?」と変に感心する長女。「そうだね、それも、自分の母親が突然目の前で視界から消えた!と思ったら、地面に転がって笑ってるんだもんね。何かの冗談かと思ったよ」と呆れる次女。 何がそんなにおかしかったのか・・?いや、言ってみれば大した理由ではないのだが・・・ちょっと道に迷った?だけの話なのだが・・。大晦日、元旦、二日と三日間、長女・次女の家族が泊りがけで集まって食べに食べ、飲みに飲んで過ごしたお腹が全員満タン状態で、いつもなら車で行く初詣を女達は「歩いて行こう!」と言うことになった。少しくらい歩いて運動でもしておかないと、夕食が美味しく食べられないしブタになってしまうからだ。娘達の亭主は「今更無駄だと思うけど、勝手にすれば。天満宮に着く直前に電話してよ。車で追いつくから」と手をひらひら振って私たちを送り出した。 「いつもの大通りの平坦な道からじゃなく、坂上に上って行こう!こっちの道からの方が上がったり下がったりで体脂肪が減るかも・・」と私が言い出し、「こっちの道が近いのよ」と道案内していたのだが、「ママ、このまま行くと山本記念病院に行くんじゃない?さっき見えてた天満宮の幟も無くなったし、鐘の音もどんどん遠くなって、なんだか天満宮からどんどん離れて行く気がする」と娘達が途中で言い出した。「いいのよ。大丈夫!ママはここに何年住んでいると思ってるのよ!」と自信を持って言い切った私であるが、大分歩いてからふと気がついた。<道を間違えたかも・・?!>新年早々又やらかしてしまった!と思った途端、お腹の皮がよじれるほどおかしくなり、笑いがこみ上げてウッハッハ!とのけぞった時には地面に転がっていたのだった。「これでママの一年が決まったね!気をつけてね」と娘達は労わりながらもニヤニヤ。 なんとか方向転換して辿り着いた天満宮で引いたおみくじも「末吉」で、中身は「大凶」のような文言ばかり! でも、懲りない性格の私はこう思う。例え転んでも、傍で助け起こしてくれる娘たちがいる。転びそうになったら「転ばぬ先の杖」になって支え見守っていてくれる「心の宅急便」のメンバーや友人たちがいる。ああ、安心して転べる私はなんて幸福者なんだろう! おみくじの内容は忘れよう!「末吉」なら後は登る一方だから、先が楽しみだ!と思うことにしよう!こうして2012年脳天気ズッコケ女の一年は始まった。 こんな私ですが、皆様今年もどうぞ宜しく!        ヒロコ・ムトー
今年は5月に母の豆紙人形と私の真似紙人形の「母娘展」をやる予定だ。心の宅急便で 子供たちに私の作品も見せてあげられるように頑張るつもりだ。写真は昨年大晦日に作った山形の花笠音頭と、その前の週に作った下関の八丁浜祭りの太鼓引き回し風景である。

 2011年

 夏の思い出
 
 
八丁浜 えらいやっちゃ!「おしゃもじ祭り」


おしゃもじ祭り後ろ姿
今日は盆の入りの日である。場所によっては7月にやる所もあるらしいが 主人が生きていた頃、いつも8月13日になると角地にある我が家の三角庭の 前でおがらを焚いて亡き人を迎えに行っていたから、私も昨年からそうしている。 仏事でも何でもよく知っていた主人は一昨年10月に帰らぬ人となった。 仏事だけでなく一般的な祭りごとなど世の中のしきたりに疎い私は、主人が いなくなってからはもう訊く人がいなくなったので、彼がしていたことを ひとつひとつ思い出してはご近所の物識りな方に伺いなおして確認をしている。 私が特に仏事に疎いのは、5年前に亡くなった母がクリスチャンで、家では 盆祭りなどをしていなかったからかもしれない。何でも生き字引のように知って いた母だったが、仏壇の前に何かお供え物をしていた記憶が私にはない。 夏と言えば、幼い頃の懐かしい思い出と言ったら祭りである。盆踊りに行ったり お寺の境内で金魚すくいをやったり、祭りの神輿や着物を着た女の人が踊り ながら練り歩く姿に心を躍らせたり・・・ 豆紙人形作家だった母の作品に「日本の祭りシリーズ」がある。母の故郷下関の 八丁浜祭りや亀山神宮祭り、お上臈が男衆やかむろを従え練り歩く先帝祭り、 山形の紅花祭りなどである。それらの作品は2005年にパリ日本文化会館で 母の豆紙人形展を開催した際に、パリに寄付してきた作品で日本にはない。 私は今、日本にないそんな母の作品を写真を見ながら「真似紙人形」作りをして 再現しているが、一昨日、祭りシリーズの中の八丁浜「おしゃもじ祭り」を作ってみた。 この祭りは、人柱となって唐戸発展の礎となったお亀さんの功績を称え、約1000人の 踊り手がしゃもじを持って「八丁浜えらいやっちゃ!」と掛け声をかけて踊るそうだ。 母の作品でしか見たことのない遠い九州の地での祭りだが、被災地の方を励まし 少しでも元気になっていただくよう、祈りをこめて作ってみた。



  いたわりの心                                                                              
   
母さん お肩をたたきましょう?


 人は自分自身がその立場になってみないと なかなか気づかないことがある。 私が今、心の宅急便の講演で子供たちに伝えている「いじめの怖さ 悲しさ」も それが原点である。 子供たちはほとんどの場合、いじめをいじめと自覚しないでいる。高学年になって 意識的にやる子もいるだろうが、それは本当に少数だ。子供たちは自分が「いじめ」 に遭うまでは、自分が加害者になっていたことがあることすら気づかない。 「もし あなたが今 そうされたらどうしますか?」 「もし あなたが今 そう言われたら どう感じますか?」 私が心の宅急便の講演で子供たちに必ず問いかけるその言葉は、「もし 自分が?」 と、想像し考えてもらうことが狙いである。自分がやられて悲しいこと辛いことを 誰かにしていないか?それを振り返り、自分の心を見直す時間を子供たちに持って もらいたいから。 「本当に、その立場になってみないと気づかないものですね」 奥さんが車椅子生活になって介護しているSさんが、ため息をつきながら言った。 「日本が体の不自由な人に対して、こんなにも優しくない国だとは知りません でした」 病院から退院した奥さんに気晴らしをしてもらおうと、車椅子を押して外出したSさんは あまりの不自由に驚いた。電車に乗ろうにも改札口から乗り場までの移動がスムーズに 行かない駅が多すぎる。何処かの店に入ろうとしてもバリアフリーになっている店が 少な過ぎる。デパートのトイレに車椅子専用の表示があること、そして右利き左利きの両用を設備していることは初めて気がついたが、意外にその配慮が足りない有名病院があったりする。「妻がこうなるまで、そんなこと少しも気づかなかった。気づこうとしなかった」Sさんはそう言って視線を落とした。「でもね、こないだ、こんなことがあったんです」Sさんの目が輝いた。 新宿のあるデパートで奥さんの車椅子を押しながらエレベーターを待っていたところ、 ドアが開いたら満員だった。<日曜日にデパートに来るんじゃなかった・・>そう思った とたん、エレベータ係りの女性がドアを押さえてこう言った。「皆様、このエレベーターはお年寄りやお体の不自由な方を優先しております。どなたか宜しくお願いいたします」 するとすぐに5、6人の人がサッと降りて「どうぞ」と手を差し出した。 「ありがとうございます」Sさんは胸が熱くなった。呼びかけてくれた女性のやさしさと それにすぐ応えてくれた人々のいたわりの心に深く頭を下げてエレベーターに乗り込んだ。 「日本人はまだまだ捨てたもんじゃないですね」そう言った私にSさんは微笑んだ。 「国は、まだまだだけどね」


 つなみ                                  
  アメリカに住んでいる姉から、下記のメールと共に動画「つなみ」が送られてきました。今、日本人が一番求めている答えを教えてくれている気がしました。ぜひ ご覧ください。          ヒロコ・ムトー
海外にいる私の友人が、こんなYouTubeの動画を紹介してくれました。 米国のノーベル賞作家パール・バックの日本童話『つなみ』(1947年刊)をもと に作られたものです。 パール・バックは、かつて日本の漁村に住み、今回と同じように大地震と津波 を経験しました。 60年以上も前の作品ですが、まさに今の日本の状況にぴったりです。 多くの人が住むまちを一瞬にさらっていってしまった大津波と、それを乗り越 えて生きる人間のたくましい心。 読んでいて、涙が出てきました。 「ふるさと」のやさしいギターメロディとともに、心が癒されます。 被災者の方だけでなく、多くの方にぜひ聴いてほしいと思います。 http://www.youtube.com/watch?v=uiIbBiUnMxs


 手をつなぐ子供たち
   今朝のS新聞朝刊裏表両面一杯に被災地の子供たちの輝くような素晴らしい笑顔の写真が載っていた。「早くみんなに会いたい」「ゲームがしたい」「家に帰りたい」「みんながんばってます」などと手に手にプラカードを持っているが、その子供たちの屈託の無いはじけるような活き活きとした明るい笑顔に涙が出るほど感激した。 背後には体育館の冷たい床にダンボールが布団代わりに敷かれ、椅子やテーブルには毛布がうず高く重ねられ、未だ悲惨な避難状態が映し出されている。子供たちの足元も上履きなしの靴下一枚だ。カメラがここまで入れるようになり、飢えをしのぐ物資は少しは増えたかもしれない。でも、通常の生活には果てしなく遠い。今まで持っていた当たり前の幸福はこの災害で根こそぎ奪われてしまっている。辛いだろうと思う。不安だろうと思う。叫びたいほど悲しい思いをしていると思う。だが、この状況下にあって、それを一瞬忘れさせてくれるほど子供たちの笑顔は生命力に溢れていた。彼らの身体からは「希望」「勇気」「未来」の言葉が眩いほどに感じられた。 今回の3・11大震災後、海外に住む友人からも心配のメールや電話が沢山入った。その中で、シアトルに住むE子さんの言葉が印象的だった。 「日本を離れてもう三十年になります。でも、今回くらい母国日本を、日本人を誇らしく思ったことはありません。これほどの被害に遭いながら、互いに互いの身を案じあい、家を失い、家族を失い、仕事を失いながら、明日への希望を失わず、人間への信頼を失わず、 復旧に向けて前へ向かって生きている。日本人て素晴らしいと心から思いました」 他国での大きな津波やハリケーンの大災害時、一部の人々が暴徒と化しコンビニやスーパーに強奪に入ったり、欲や自分を守るため、殺傷事件が続発した映像は私たちの目にまだ生々しく残っている。世界中の目が見守る中、1000年に一度の未曾有の災害の中で、日本人は日本人としての最高の姿を見せてくれた。 未来に向かって手をつなぐ子供たち、今、私たち大人は、人として何をしなければならないか、何を考えなければならないか、これからこの子供たちをどう守れるか、どう助けて行くべきかを問われている。


 寄り添う時間
 

金魚すくい
姉のように慕っているOさんが脳梗塞で倒れた。大学入試で大阪から上京してきた時、入れ替わりに大阪に嫁ぐ姉の紹介で私の世話をしてくださった方だ。それ以来、ずっと私にとっては家族同然の存在である。東京の大学に入学して下宿先が決まるまでの一ヶ月間、私はOさんの実家でお世話になった。その間、受験勉強だけしかしてこなかった私に、Oさんは一人で生活できるようにお料理や下宿先での心得、大学生活のイロハなどを懇切丁寧に教え込んでくれた。 今考えればOさんはその時大学を卒業したばかり、たった四歳しか違わなかったのに、私にはOさんがうんと歳の離れた大人に感じていた。実際、Oさんは何でも出来た。優しくて明るくて魅力的で、そして頭のいい人だった。 Oさんはその後学生時代からのボーイフレンドと結婚し、二人の息子に恵まれ、そのまま素敵な中年となり、素敵なシルバー世代に入った。優しくてハンサムで足の長いご主人も会社でどんどん出世し、どんどん風格のある男性になり、仲睦まじい二人が一緒に寄り添っている姿はまるで絵のように幸福な風景で、私の憧れでもあった。 そのOさんが脳梗塞で倒れた報せを受けた時、目の前が暗くなった。Oさんにもしものことがあったら・・!そう考えるだけで病院にお見舞いに行くのが怖かった。ここ数年、大切な人が何人か旅立っている。誰か大切な人が病気と聞くだけで胸が苦しくなる。 Oさんの症状は軽くはなかった。下半身と左腕が動かない。昨年11月に倒れ、先月からリハビリを始めているが、まだ左腕は動かず、自分の力で立ち上がることも動くことも出来ない状態だ。 「でもさ、君は意識障害が全くなかったんだよ。凄いことだ。リハビリをさせてくれるってことは、治る可能性があるからなんだよ」 こんな身体になってまで生きていたくないと涙するOさんに寄り添って、やさしく言いきかせながら介護するご主人がそう言った。毎日病院に通い、笑顔が無くなったOさんに「おっ、今日は肌の色が綺麗だぞ。病院にいるせいか色白になったな」と、何かいいことを見つけては嬉しくなるような言葉をかけている。そのご主人に少女のように甘えて我儘を言ってすねるOさん。その寄り添う姿が素敵だった。今まで見たお二人のどの姿よりも素敵だった。寄り添う時間に必ず来る春を見た気がした。


 新年 明けましておめでとうございます
                                  
    
  真似紙人形  ヒロコ・ムトー作
 2011年になりました。昨年は児童虐待や小学生のいじめ自殺など、悲しい事件が沢山 ありました。どうしてこんなことが何度も何度も起きるのだろう?とニュースを聞く度 胸が痛みました。この世の中に生を受けた誰もが幸せに生き愛されて生きる権利を持って いるのです。生きてさえいれば、必ずそれを手に入れられる、と言うことを周囲の大人が 子供たちに教え守ってあげなければ・・と強く思いました。 何かが起きる前に、助けを求める子供のシグナルを見逃さず救えるよう、もっともっと 私たち大人が心を開きアンテナを立てねば!とそんな風に思いました。 上記の写真は、88歳から豆紙人形を作り始め93歳で他界した母、マサコ・ムトーの 作品を真似して昨年末から作り始めたものです。不器用な私には出来ないと頭から思い 込んでいましたが、作り始めたら面白くて面白くてどんどん作りたくなってきました。 何でも「出来ない!」と思い込む前にやってみるものですね。 目も足も不自由で、おまけに体中難病に侵されていた母でしたが、病気や年齢を言い訳に して「出来ない」と言うことを一切言いませんでした。いつも明るく前向きに生きていました。そんな母を思い出しながら真似紙人形に挑戦しています。母が遺してくれた言葉 「人生 遅すぎることはない」を噛みしめながら

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